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組合のあゆみ
始めに病ありき
創り出すことは、何事であれ大変なことであった。
「山田五十鈴さん(女優)が、飛び込んできて“先生、病院を建てましょう”と言われたときは、いささか驚いた……」と舞踊家の西崎緑さん。然しその言葉・熱意に共鳴された西崎緑さん、笠置シヅ子さん(歌手)の女性三人による斯界(しかい)の有志への働きかけが、今日の芸能人国民健康保険組合という形で、一歩を踏み出すこととなった。
当時の芸能人は、不健康な環境の中で身体を酷使することが多かった。芸能人は華やかな反面、健康を損ねた途端に惨めな生活に追い込まれることも少なくなかった。1951(昭和26)年のこと、肺結核で倒れた俳優仲間の闘病生活の苦しさ辛さを見るにつれ、心を痛めた山田五十鈴さんらが、生活の心配なく安心してかかれる芸能人のための病院をつくりたいと考えた。そして、徳川夢声さん(漫談家)、山本嘉次郎さん(映画監督)らと相語られ、実現を目指されたが、大金を要すること、利用できる場所が限られるなど幾多の難問題の壁にあたり実現できなかった。それならば健康保険組合はどうかとの代案が出されたのが、組合設立の発端となった。
72の烽火(のろし)
戦後の混乱まだ冷めやらぬ1952(昭和27)年4月25日、今では想像もつかない焼け残りの古ぼけた建物の一室(有楽町ピカデリー4階)に、前述の方々をはじめ各界から72名の方々が顔をそろえ第1回発起人会が開催された。電気もなく薄暗く、日が暮れればローソクを灯して議論を重ねた。ここでとにかく幅広い分野に呼びかけて同意書を集めようという結論になったが、活動資金は乏しく、また、訪ね先ごとで、健康保険の理解はなく“保険屋さん”と間違われるなど、大変な苦労が伴った。
渋谷区大和田町(現・道玄坂)にあった山田五十鈴さんの事務所を連絡場所として、時には新橋烏森の常磐津文字寿々さんのお稽古場をお借りし半年間、日夜を分かたぬ苦労が実り、ようやく設立認可を受けるだけの人数がまとまった。
設立そして事業開始
1952(昭和27)年9月30日、設立発起人総会を銀座並木通りにあった「クラブ耕一路」で開催し、東京都の助言を得て規約等を定め、同年11月10日にようやく都知事の認可が下付され、東京都医師会等との契約もすみ11月15日晴れて事業開始となった。時として、わが国のテレビ放送開始の前年であり、芸能史上あらたな幕開けとして特筆すべきことだと思える。以降、他の各種職域国保組合が後に続き、当時だけでも17団体が認可を得、さらに昭和35年の都民皆保険、翌年の国民皆保険制度へと進展した訳で、手前味噌とはいえ誇りとすべき先駆的役割を担ったと言える。
設立当初の被保険者数は2,712人(71団体)、保険料組合員1か月150円(家族100円)、給付割合は当時異例のオール7割(他の組合は5割)でした。初代理事長は徳川夢声さん、事務所は徳川理事長の関係されている新橋烏森の「漫談協会」の一隅をお借りした。
芸能人の力によってできた
創ることは意思だけではできない。徳川夢声さんや山本嘉次郎さんは、当時NHKラジオ放送の“とんち教室”の出演料をそっくり出され、また、山田五十鈴さん、西崎緑さん、笠置シヅ子さんらと民藝、俳優座、文学座からも寄付が寄せられた。文字どおり芸能人による芸能人の組合ができたといえる。これは第1回組合会(昭和27年12月6日)での議長・理事長の言葉でも明らかだ。
議長の藤田俊一さん(邦楽家)は「この組合は官の力でできたものではなく、全く芸能人の力によってできたものであり、芸能人の協力によって発展するものです…」。また徳川初代理事長は「何よりも一人ひとりの組合員の協力が大切、官公庁や大会社の健康保険とは違ってこれはバラバラな芸能人の組合である。それが芸能人個々の目覚めによって盛り上がってできた組織である。だからこれが巧く成功すれば最も強力な組合となる。そのかわり盛り上がる力がチグハグになると最も弱体な組合になるのである…」、まさに迫真の言葉であり、現在にも相通じるものだと思う。
設立その後
設立したものの経営の不慣れもあり、また想定以上の医療費の伸びにより支払い財源が枯渇するなど組合運営は窮地に立たされた。組合は任意設立という性格から当時の国の助成は僅少であり、当事者の経営努力にのみ財政的命運がかけられていた。昭和29年度途中に、家族の給付率7割を5割へ引き下げた他、有志によるサイン会や劇団・団体からの寄付などで急場を凌ぎ、ようやく昭和30年度決算で初めて赤字は解消された。
被保険者数は、設立当時3千人に満たないものであったが、その後加入者は増え1959(昭和34)年には1万人を超える被保険者を擁するに至った。しかし、幾多の制度変遷に伴い逐年漸減を続け、現在では9千人弱となっている。何れにせよ設立に大変苦労された先人の意思を継ぎ、健全運営を確保し、さらに組合を発展させることが私どもの使命であることを、肝に銘じる必要がある。
《創立発起人の方々》
飯田蝶子(女優)、石井漠(舞踊家)、市川猿之助(歌舞伎役者)、花柳章太郎(俳優)、坂東三津五郎(歌舞伎役者)、西崎緑(舞踊家)、堀小重(作曲家)、堀内敬三(作曲家)、徳川夢声(漫談家)、富崎春昇(地歌奏者)、常盤津文宇兵衛(邦楽家)、大倉喜七郎(邦楽家)、大江良太郎(演出家)、大江美智子(女優)、笠置シヅ子(女優)、貝谷八百子(バレエ)、河竹繁俊(演劇作者)、桂文治(落語家)、紙恭輔(作曲家)、高峰秀子(女優)、高峰三枝子(女優)、滝沢修(俳優)、田村秋子(女優)、高橋誠一郎(映画監督)、高田せい子(舞踊家)、中村吉右衛門(歌舞伎役者)、中村時蔵(歌舞伎役者)、中村勘三郎(歌舞伎役者)、中村歌右衛門(歌舞伎役者)、中村伸郎(俳優)、永田靖(俳優)、永田雅一(大映)、邑井貞吉(講談師)、武藤与一(コロムビア)、久保田万太郎(劇作家)、山口淑子(女優)、山田五十鈴(女優)、山田耕筰(作曲家)、山本嘉次郎(映画監督)、山本安英(女優)、山本礼三郎(俳優)、町田嘉章(音楽)、松本幸四郎(歌舞伎役者)、藤蔭静枝(舞踊家)、藤原義江(オペラ歌手)、藤田俊一(邦楽家)、古垣鉄郎(放送)、古川緑波(喜劇俳優)、富士松加賀太夫(邦楽家)、小暮実千代(女優)、小林一三(宝塚歌劇団)、小宮豊隆(演劇作家)、越野栄松(邦楽家)、小牧正英(バレエ)、榎本健一(喜劇俳優)、江口隆哉(舞踊家)、寺中作雄(演劇)、青柳信雄(映画監督)、渥美清太郎(歌舞伎作者)、足立正(作曲家)、佐生正三郎(映画監督)、清元梅吉(邦楽家)、城戸四郎(映画制作)、水谷八重子(女優)、宮城道雄(筝曲家)、三宅襄(能楽家)、春風亭柳橋(落語家)、松旭斎天洋(奇術師)、東山千栄子(女優)、森田孝(作詞家)、杉村春子(女優)、壽々木米若(浪曲師) (イロハ順)